昭和51年06月13日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
有り難いと心得て信心せよと言う所が難しいですね。有り難くないなりに信心してしておる人はどの位多いか分からない。何か自分の都合の良い時だけは有り難いけども、でない時にはやはり信心は苦しいもの、信心はお金もいれば暇もいると言った様な事になる。有り難いと分かって信心させて貰うと言う事が大事です。それにはやはり私共の心が段々おかげを頂いてん来なければならん。
いうならば親切な心というか、実意な心というか。祈願詞に丁寧に親切、愛をもって語り行くとこうありますから。先ず丁寧な私にならなければならない。同時に親切心がいよいよ高まって来なければならない。愛と言う事になると、もういよいよ高度な心です。ただ人一人を愛すると言った様な、愛とは違うんですから。いうならば、まぁ神愛を目指すのですから。私今朝起きましたら、次の部屋に家内と孫が休んでおりますが、孫が外へ転げ出とるんです。
転げてから布団の上にこう寝とる。今朝ほど寒かったでしょう、ですからもうこう縮こまってねあのう寝てるんですよ。それを見た瞬間ですね、はぁ世の中にはこう言う風にそのう縮こまった生活。いうならば寒いけれども着るもんも与えられない、欲しいものが欲しいと与えられない、食べるに食なし、着るに衣なしと言う様な極端な人は少ないと致しましてもです。やはり世界を見回してみると、やはり沢山そういう人があるだろうと言う事です。私ちじこまってこうしておるのを見せて頂いてから。
あそこの中にこうやって入れてやりながら、何か胸が熱くなったんです。そして私思うのは愛を持って語って行くと、愛をもって伝えて行くというものは、こういう心がなからなければ伝わらないなと思いました。今日のあのう私は御理解は、教典を開かせて頂きましたら、この神訓というありますね御神訓。『神訓の訓という字』を頂いたんです一番最初に。そしてこれはどう言う事かというと、言偏ですね言うという字。言偏。言偏に三本川ですね。だからいうならば言葉を流して行くという風に感じたんです。
良く申しますでしょう。マイクでこう流すとこう申しますね。いつでしたかお互いに一人一人が有り難い御教えを頂いて、有り難いおかげを頂いて、その頂いておるのは、まぁ毎日朝の御祈念ならまぁ五十人か百人かである。その百人なら百人の人がです、その頂いておる有り難いと感じた事を、拡声器代わりになって流して行かなければいけないと言った様な事を頂きました。みなさんはその拡声器代わりになっていかなければいけんのです。今度の新運動の眼目はそれなんですから。
昨日難儀を助け給わんとと言う所までお話ししましたかね。だから生神金光大神様を差し向け給いし神の御心こそ尊けれ、教祖金光大神様は実意丁寧神信心の生活を進め給いて、世に試なきみかげを受けたまい、神と人との新しきあいよかけよの道たちて、神の頼みをそのままに、神も助かり人も立ち行くという、働きの出来る信心をいうならば、自立された訳であります。打ち立てられた訳です神の頼みをそのままに私共がです、なら金光大神の言うならば手代わりとでも申しますか、口代わりとでも申しましょうか。
私共が金光大神に取次ぎを頂いて、頂いておる有り難いおかげを又は御教えをです。これを人に伝えて行くと言う事。そこでです世に試なきみかげを受けたまいて。昨日の研修の時に皆さんが発表されました。昨日は美登里会の研修日でした。もう一人一人殆ど発表されましたが、本当にあのう親先生がこの世におられなかったなら、合楽教会がもしなかったならば、もう私の方は無かったかも知れん、今日の私共はなかったと言う様な話が非常に多かったんです。
もう済んでしもて、お届けも済んで時間がまだちょっとありましたから、最後に原さんと秋山さんがまだ発表してなかったから、発表されましたが。もう本当にあのう胸が一杯になって、今日ただ今おかげを頂いておると言う事を思うたら、もう言葉にならなくて、出らなかったです二人とも。そういう話ばっかりでした昨日は。いうならば世に試なきみかげを教祖様が承られたんですけれども、なら合楽の皆さんもやはり、もう今迄且てないおかげを受けて来られたと言う事になります。
そこからです、神と人との新しきあいよかけよの道が、いうならここでは合楽示現活動と言う風に言われております。私だけが助かる、私自身がいうならば、善導寺の教会で、いうなら善導を受けた。善いお導きを受けた。おかげで大坪一家がだんだん助かってまいりまして、それこそ善導寺から勿体島、有り難い勿体無いの信心にならせて頂いた。そしてそのここの前身であるところの椛目である。椛目とは木偏に花と書いてある。心に花を咲かせる。喜びの花を咲かせる。
そこに喜びの花を求めて沢山の人が集まって来た。そのいうならば信心の喜びを常に持ち続けると言う事になって、いわゆる善導寺勿体島、椛目そして常持とこれはいうならば、ちょうどバスの停留所の名前ですけれども、その喜びの心を常に持ち続ける。だからその喜びをただ常に持ち続けると、本当に合楽がなかりせば、今日の私共はと言う様なおかげを頂いておるだけではいけんのだ。もうすぐそこに合楽が見えておる。この喜びをいうならば神も助かり氏子も立ち行く、そういう合楽の世界拝み合いの世界。
人が助かっていくところの、世界の助かりのいうならば顕現のためにです、私共が精進していかなければならないというのであります。今日はそこんところですね。教祖様も初めて天地の親神様から神頼みを受けられて、神と人との新しきあいよかけよの道がたったと、こう言うておられますけれども、ただ私だけが助かったという人はどれだけあるやら、もう数限りがないくらいでしょう。おかげで助かったというのは。けれどもその合楽まで持ち続けていない。
人も神様も助かって下さる働きに、私共が奉仕してない。いうなら神と人との新しきあいよかけよの道を、私共が人に伝えていく。今日の私はこの言偏に川という字を頂いて、すぐ私が言わば直感した事は、はぁこれは言葉を流していかなければいけないなということであった。今日はこの事を頂くなとこう思うた。そこでなら御教えはどこを頂くだろうかと思うて次を開かせて頂いたら、この七十六節だった。人間は人を助けるということができるということが、有り難いと心得て信心せよと。
助けられるけれどもその助けられると言う事が有り難いと心得ていない。私は昨日大変何というですかね、悲しいというですか。もどかしいというですかね。まぁだそげんところも分かっとらんだろうかと、言った様なものを感じたお届けがありました。昨日朝福岡からお参りしてきとる人がありました。前の日の月次祭におかげを頂いたんです。ある人の車でもう丁度ここお月次祭だけ五回位もう五、六回参って来てるんです。それで帰りの車をどなかにかお願いしようと思うていったら。
そのうある人の車が夫婦で通いなさりよるですから、それにお願いして便乗させて貰った。そしてもう合楽に一番おかげを頂いて、お参りをするたんびに有り難うなってきた。もうその有り難い話がもうとにかく、二人で後ろで話さなきゃおられない。そしたら前に乗っとる嫁さんが、私は眠たいけんで、あんまりお喋りをせんでくれとこう言うた。もう本当に大衝撃を受けた訳です。そして二人でこの次からはもう金はかかったっちゃバス電車で参ろうと二人で話し合いました。
だからどうぞバス電車で、おかげ頂きたいと思いますからというお届けがあった。そげんあんた、しゃっち決める事はいらんじゃんの、そげな不親切な人ばっかりじゃなかもんやけん、福岡からはまだ沢山参ってきよるけん、誰か親切に乗せて下さる人があるなら、わざわざ福岡までしかも最終のここではバスになりますから、そのバス電車を使うと、お金を沢山使うと言う事だから、誰か親切に乗せて下さるという人があったら乗せて帰ってもらいなさい、でなかったらバス電車を利用しなさい。
こうと決める事はいらんじゃんのと、言うて話した事でしたけれどもです。本当にお互い信心させて頂いておって、例えば商売をしておってです、もしお得意さんがです、大事なお客さんがです、車に乗せてくれって言うたら、もうそれこそはあどうぞと言うだろうと思うです。そしてちった遠回りになったっちゃ、その人を一番に送り届ける位の事はするだろうと思うです。お客さんだから。だからそれは親切じゃないでしょうが。自分の欲から出とるとですよ。
私は本当にこの愛というならね、先ず私はあの教団愛とか教会愛というものが育って来なければだめだと思うですね。もしこれが私だったらどうしただろうかとこう思うた。ようやく合楽に四、五回お月次祭に参って、しかもあれが普通のお喋りじゃない、もう今日の御理解の有難かった、有難かったもうちょいとあそこんにきのというて、こう一生懸命二人で話しよったらね、あたしゃ眠たいけんお喋りはやめてくれと言うた。もう私はほんなこて血の気の引くごたる感じがしましたよ、それを聞いてから。
お互いそういうことはないでしょうか。乗せてやりよると言う様な事はないでしょうか。とてもとても乗せさせて貰わなければおられない、初めての人達がお参りをするなら遠回りをしても、迎えにいってでも送ってやってでも、お参りをせにゃおられない、これが教団愛であると同時に教会愛です。乗せてあげますよ、もう本当に頼んでからでも誰かがお参りをしたいと言うならば、もう私は迎えにきてあげますけん、どうぞ用意しといてくださいと。
迎えにいったり送ったりしてでも、私は信心をさせて頂こうという人がそこにあるならば、合楽にお参りしたいという人があるならば、そうしなければおられんのが、私はここで頂いておる日ごろの信心じゃないかと思うんです。それにあなた何ですか。私は眠たいけんでお喋りはやめてくれと。もうそげなことならもう、降してくれち言おうごたる感じがするじゃないですか。そしてもういっちょこの人には乗せてもらわんぞと思うてです、これからは電車の中、バスの中ならばです。
誰はばかれなしにお話しができるからこの次からは電車バスを利用してお参りしまょうやと言うて二人で話しましたと言うのです。もうなんと不親切な事であろうか。なんと愛のない事であろうか。私は先ずひとつ教会愛とでも申します様なね、言うならばね、もうどんなに例えばこれを何千巻、何千べん読んだところでです、丁寧親切愛を持ってと言うてもです、内容にただ今申しますようなものがなからなければね、絶対この運動の発展にはなりません。
商売をさせて頂いておる人がです、なら自分のお得意さんであったならばです、もう頼んでからでも乗って貰いたい。遠回りしてからでも送ってあげたい。けれどもそれは欲から出ておるとです。だから信心の欲をいうならばです、いつでしたか善導寺の久保山さんを久留米の石井清さんが便乗させて乗せて行った。もちろんあれからずっと回りになりますから、もうここで降ろしてくれと久保山さんが言われたら、いいえこれからは私のためと言うたそうです。これは信心の欲です。すばらしいでしょう。
何でも欲を持たなきゃいけません。普通のもんならばそこまで乗せて貰ったつでも有り難いのだから、ならここで降ろして下さいと言うならば、あぁそうですかと言うてもう降ろすでしょうけれども、私はそこに清さんの信心があると思うです。いいえこれからは私のためと。というて家の前まで送って頂いたというて、久保山さんからお届けがありましたが。本当に日頃こうやってお取次ぎをさせてもろうて、皆さんに聞いて頂いたり、教えさせて頂いたりしておる事のです。
いうならば取り次ぎ者冥利を感ずる時がそういう時です。有り難いなと人間の心が育っと言う事は有り難い。にもかかわらずです、もう永年お参りをさせて頂いておる人がです、折角信心の有り難い話合いをしておるのに、私は眠たいけんお喋りはやめてくれと。それこそかつんとくるようなお話しじゃないですか。そう言う様なものが心の中にちびっとでもあったらもう信心じゃないです。
まぁ例えていうならば思いようですから、これが自分のところのお得意さん、お客さんと思うたら大切にせずにはおられないように、それが段々高められて行く。教会愛と言った様な事になる。ここに一人の信者が出来た、二人の信者がお参りに出来るならばです。少しはいうならばガソリンは使うてでもです、遠回りしてからでもです、送ってあげるくらいな親切がなからなければならない。そういうのが私は愛の心が育たなければだめだというふうに思うんです。
ここで人が助かるのはです、私がなら今日孫が、寒いいうならばこう縮こまってガタガタ震えてこそはおらんけれども、震わんばかりしてこうやって休んどるのを見て、それをかかえて布団に入れるまで、これは爺じゃから、孫と爺じゃから誰でもすることです。けどその時に私がね、世界中にはこう言う様な状態の人が、どの位あるだろうかと思う心が、これが人が助かるもとなんです。私はそう思うです。だからこういう人達を助ける手立てというものがです、本当にいよいよ力を受けなければならないなぁ。
いよいよ愛の心が育ついよいよ神愛と言う所までも、育っていかなければいけないなと言う事を私は感じました。人を助けると言う事を有り難いと心得てというのは、私は愛の心だと思います。むしろ自分の心を拝みたい気がするですもんね。ガタガタ震えておる人達をです、どうか手当をもって救い助けていこう親切に話していこう、丁寧に導いてあげようと思うその心がです我情我欲じゃない。そう思う心が私は神心だと思うです。だからその神心に自分で自分の心を、合掌したいような心をもってです。
私は人に伝えて行くと言う事にならなければならないと思います。牛馬はわが子が水に落ちておっても助ける事は出来ぬ。人間がこれを見ると助ける。そうい助ける事の出来れる、いわばものを私共は持っておるのですから、ただ持っておるだけでは何んにもなりません。それが使われなければ行使されなければ。だからそこに必要である事は、いわゆる愛の心であります。世に試なきみかげを受け給い、神と人との新しきあいよかけよの道立ちて、神の頼みそのままに神も助かり人も立ち行く。
生神金光大神御取り次ぎの働きを、永久に現し給うこそかしこけれ。私が今日聞いて頂いた事はいよいよ永久にね、教祖の御信心が打ち立てられて百年。その間そうした働きが現れて、今日合楽でならこの様な働きが起こっておる。その合楽で頂くその教えをおかげをです、また私共が次から次ぎへと現していく。いうならば私共が拡声器代わりにならせて頂いて、多くの人にそれを伝えいていく。そういう私共はね、いうならば使命感というか責任感というか、言う様なものが育って来るおかげを頂きたいですね。
私がおかげ頂きさえすればよい、私が喜びに浸ってさえおればいい、それは丁度善導寺、勿体島椛目、常持まで来とるところです。それがいかんというのじゃない、もうおかげで常持まで来とる。もう直そこに合楽が見えておるという所にです、私共は着眼しておかげを頂いていかなければなりません。自分の助かりが次ぎの人の助かりになっていく。そういうはたらきこそが神も助かりということになるのです。いよいよ合楽示現活動に参画のおかげを頂いて、いよいよ血や肉がついて来るおかげを頂いて。
いよいよ愛の心をもって自分の心の中に。昨日私が御取り次ぎをさせて頂いた、もう永年信心しよってです、例えば本当に合楽にお参りをしたいというなら、それこそ自分がもし車を持っておるなら、わざわざでもなら私が乗せていきましょうという位な、心は育たなければ本当に悲しい事です。折角後ろに乗って頂いた人に対して、いよいよ合楽と言う所は有り難いとこねと、お話しだけじゃない、あそこにお参りしておられる人達がみんな有り難い人達だと、言う様なおかげを先ずは私共が頂かなければなりません。
有り難いと心得て信心、そういうことが私は有り難いと心得て信心する事じゃないでしょうかね。自分が芯になって、自分の周囲にそういう難儀な人達が、次々と助かっていくということが有り難い楽しい。神の願いを受けて言わば立たせて頂いておる姿がそうであります。いよいよそういう働きが出来る事を、有り難いと心得ての信心に進んでいかなければならんと思うですね。
どうぞ。